悟りという状態についての続きです。
普段は
ちゃんと「自分」も存在していて
二重写しみたいに両方の世界を体験していて
それはパソコンの画面上に表示されているものと
その元になっている無数のゼロとイチの組み合わせを同時に見ているような感覚で
意識的に
どっちかにチャンネルを合わせることもできます。
と書きましたが
至福の状態でいられるのは
実在の一歩手前
かろうじて「自分」が残っている状態です。
このあたりのことは
エネルギーの観点から
わかりやすく説明できるんだけど
エネルギーのことを一から説明すると
話が逸れるから
興味ある人はそのうち講座に来てください。
(開催時期未定)
いちばん早く
いちばん楽ちんに
平和で甘美な至福の世界にご案内いたしましょう。
えっと。話を戻します。
完全に実在の次元に行っちゃうと
そこはもう「無」の世界で
至福と感じる自分はいません。
自然界の美しさも
繋がりの愛おしさも
かくも自由を与えられている感謝も
一切認識できません。
認識する「自分」がいないから。
わたしはかつて
瞑想に耽溺していた時期があって
それはあっという間に
今感じているような至福の感覚に入れたからで
その体験に痺れていました。
瞑想するたびに
なんて甘美なんだろう!
なんて完全に受け入れられているんだろう!
なんて愛されているんだろう!
と至福の世界に逃避行していました。
そこには
世間を騒がす事件も悪意も
一切存在していませんでした。
今思うと
アンデルセン童話のマッチ売りの少女が
マッチの火が灯っているわずかな時間だけ
至福を味わっていたのと似ています。
混沌とした現実の世界を
あの素晴らしい愛と調和に溢れた世界に近づけようと
当時のわたしはせっせと
現実世界の不条理を訴えたりとか
デモに参加したりしておりました(笑)
けれども比較的それからすぐに
瞑想しても
その至福が感じられなくなってしまったんです。
あの美しい世界に行きたいと
目を閉じて瞑想に入るのですが
あっという間に「無」の世界に行ってしまうようになって
そこには
何かを認識する「自分」がいないので
「世界」も存在しないのです。
無・無・無・無・無・・・・
どこまで行っても無
目を閉じている間には
「無」と感じる自分さえおらず
「時間」もないので
どのくらい目を閉じて座っていても
目を開けて初めて
「無」だった・・・
「なにひとつ存在していなかった・・・」
「どこまでも無限の無だった・・・」
とわかるのです。
なんかむなしい。
あの甘美な世界をわたしはもう失ってしまったの?
わたしはどこで道を間違えてしまったの?
そんな気持ちになって
当然
わたしは瞑想するのをやめてしまいました。
その頃偶然
世界の悟った人50人にインタビューっていう記事を目にしましたが
そのほとんどの人が
「悟るちょっと前が一番幸せだった」と言っていて
妙に納得したのを覚えています。
ちなみにその人たちのほとんどが
教師とかグルなどではなく市井の人。
その状態に至ると
自己承認欲求などがなくなるので
彼らがあまり世に出てこないのは理解できます。
そうしてしばらく忘れて普通に生活していて・・・
ある時
はっ!と気がついたのです。
瞑想していない普段の状態が
あの瞑想中の甘美な至福の状態であるということに!
いつしか
わたしの意識がスライドして
瞑想中の意識状態で
普通の生活を送れるようになっていたのです。
世の中の問題も
問題のようには
まるで見えなくなってしまいました。
この状態ってどういう状態かというのは
この記事を参照
この2日間のような状態が
基本デフォルトで
世界はあまねく美しく
でも徐々に移行したせいなのか
慣れたからなのかはわからないけれど
普通の日常的な行動もあたりまえにできます!
やりたいことだけしか
やっていませんけどね。
問題のない世界に生きる
完全に愛され受け入れられ
一切の不安や不満や不足のない
満たされた状態
これがわたしたちの
本来の姿であるということが
今ならはっきりとわかります。
この状態で生きることができるようになると
ない→から得よう
のように不足ベースで
行動するということがなくなります。
満たされているから
どんどん無欲になってしまうのですが
なぜかどんどん豊かさや愛に溢れてゆきます。
(続くかも)
開催はちょっと先になると思いますが
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